昭和41年02月26日 朝の御理解



 神に心任せ心安かれ。神に心任せて心安かれ。神様にお任せする。神様任せと神様に心を任せたら心が安らぐ。神様に心を任せれば心が安らぐという任せ方でなからなければならん。神様にお任せはしておるけれども不安である。それは神様に任せたと云う事ではない。神に心任せて心安かれ。まあ今日は大変むずかしい事だとこう思いますね。けれどもお互い信心をさせて頂いておかげを頂くというのは、この心安かれという何時も心が平静であると云う事。
 心に波風が立たないと云う事。不安がない心配がないという生活に入りたいというのが、信心の私は目指しでなからなければならんと思う。神様にほんとに心からお任せ出来ると云う事。そこでそのお任せすると云う事を間違えると。大変な事になるのです。お任せ。それはね、を任せると云う事は、まあいうならば一切を任せると云う事である。いうなら、生命までも任せると云う事である。難しいでしょう。ここまでは任せられますけれどもこれから先は任せられません。それでは本当の任せたにはならん。
 いうなら、信心して矢張り、安心のおかげを頂いておるというけれども。お金があるから安心しておる。健康であるから安心しておる。頭がよいから安心しておる。それではね、本当の心安かれではない。その健康がそのお金が、その頭脳がです、どれ程頼りになるものか。分からんのである。私共が、安心をしておるというその安心を検討してみるとです。そういう様な、まだこれだけお金があるからとか、あれがおってくれるからとか、健康であるからとか。
 例えばいま、試験のシーズンなんですけれども、うちの息子は大体頭がいいからっと大体安心しておると云う様な、そのそう云う様なものでは、本当の心安かれではない。どう云う様な信心をさせて頂いたらその、心が安まるか。ある方が私に話して下さった。この神様は本当に、どの様な力働きでも持って御座る神様だから、その方は子供の病気の時に、一心に神様にお縋りをしてから奇跡的におかげを受けたのである。
 それでもういよいよの時には、あの時の事を思い出させて貰うて、あの時の信心させて貰えば、安心だと云う事を言われる。所が信心はそんなもんじゃない。もうあん時はあん時である。その時には成程、奇跡的なおかげを頂いたろうけれども、その時と同じ信心をしたからというて、なら今度も又おかげを受けられると決まってない。そこに安心というものは約束されるものではないと。
 その時のその時での、また新たなその時とは違った信心でなからなければならんと。いかに、信心というものが、信心は釘付けではない。何時も動いておるもの。何時も信心が育っておる。成長しておるという、信心で、そん時、そん時のもんでなからなければ、ならないと云う事が分かる。ま例えて申しますならば、私が今度、学院に参ります。私も、まあちょっとそんな事を考えたんですね。
 長男がしっかりやってくれるから、私の後はもう大丈夫だと。いや総代さん方がしっかりしておってくれるから、ご造営の方は、皆んなが心あわせて、委員長を始、ああして立派、しっかり信心をしておってくれておるから、安心だと。その位な事で。私がもし安心しておるとしたら、これは大間違いだと。大体そういう様な、てい、そういうものを頼りにしておると云う様事では絶対におかげにならんと。
 長男が、何処が頼りになるか。総代の誰が頼りになるか。委員長が、どこにそげな、頼りになるものを持っておるか。いうなら生身を持っておるのだ。何時どげな事があるやら分らんのだ。例えば金なら金がです、あってもそうです。金があるから安心しておるといったその金が、どれ程頼りになるか。私が例えばそんならそう言う様な事が、まあ、あの人達がおってくれるから、安心だ位な事で、私がここを空けたら、おかげにならんと私は確信しておる。
 どこまでも頼りになるのは自分の信心以外にない。いうなら頼りになるものは神様より他にない。その神様とてもです、もう神様にお任せしておるから大丈夫だという、だけではでけん。神様に、お任せし、お任せする。心まかせて心安かれと。というのは、生命までも任せておると云う事なんです。それをも少し見易う言うなら、もう私は私なりにつういっぱいの一生懸命の、信心をさせて頂いている所から、生まれてくるところの安心でなからなければ、それは本当の安心ではないと。
 どうぞ留守中お願いしますよと。留守中はしっかりやってくれよと。いくら願っても頼んだ所でです、承知しました、私共がおるから、先生、安心しておい出下さいと例えばいうてもです、それで果たして安心になるか。そういうておった人が、何時ころっと亡くなるやら分からんのだ。頼りになる者は誰もおらんと云う事。と云う事を先ず私は知らなきゃいけない。惟は健康だってお金だって、自分のその寿命だって同じ事。日頃どんなに勉強がでけておってもさあ試験の時にです、確かに知っておる、出来ておる、勉強をこれしておったとこであってもです、なら度忘れちいうのがあるです。試験が済んでから思い出しても詰らんでしょうが。
 昨日、田主丸の小野先生の息子が、正式に鹿児島のラサール中学に入学がでけた。して、正式なお届けが、正式な通知が来たからお届けに出て参りましたがです、出来ておると思うのがでけとらんで、とてもこんな問題は出来る筈はないというのが出来ておったと云う事。そう言う事だけでも頭は当てに成らんでしょうがというて、んなら、その人が頭が悪かってもよいのか、勉強せんでもよいのかというのではないと云う事。
 勉強も一生懸命、勉強を一生懸命したから安心と云う訳じゃないけれども、勉強も矢張り一生懸命、そのものが信心なのだ。百人に一人というその難関突破した、その子供がです、なら、果たして日本中の秀才を集めたと言う様な、なら果たして秀才か。現在の小学校で、5番か6番くらいしかでけとらん。そして、いよいよおかげと感じますと云う事、がどう云う事かと言うと、ただ一点差だったと云う事。だから一つの問題が間違ごうておったら、落第だったちいう。
 もうこの辺が大変私は難しい所だと思うですね。私共が信心によって、心任せて、神に心任せて心安かれというのは、私共が一生懸命の信心修行と、いうなら人事の限りを尽くすと云う事。そこから、頂けれる言わば安心。その安心の中に、まあだ頭があるから、健康であるから、お金があるからと、と言う様な事が、その安心の内容であったとしたら、それは本当の安心じゃないと先ず々悟ってよか。例えば私が、学院に参りますと、一年間空けなきゃならん。
 はぁ長男がしっかりやってくれるから、先生方がしっかりしてくれておるから、総代さんが中々、よか総代さんがおるから。ご造営の方でも、委員長がしっかりしておってくれるから、もう私の心安かれの中に、そう言う様なものが、これから先でもあてになっておったんでは、それはほんなもんじゃないと云う事。それじゃおかげ受けられない。どこまでも、神様に心任せて、心安かれでなからねばならん。ですからそこの、つういっぱいの信心と云う事になる。
 いうなら、真心の限りの信心と云う事になる。お互いの信心の、その、真心の限りとか、つういっぱいとかと。その信心を、一つ検討してみなければいけない。もう私はあれだけお願いしたのに、あれだけお縋りしたのに、あげな修行させて貰ったのに。それを私は検討してみなければいけないと。大変それは、厳しい事の様にある。心任せ、それは、生命までも任せると云う事であるから、大変、言わば命掛けと言った様な、なんかそこに、言葉の響きがですね、まあ大変死を決してと言った様に何か難しい様に考える。けれどもそんなものではない。
 自分なりの一生懸命の努力をさせて貰う。自分ながらの一生懸命の真心を神様に打ち向けさせてもらう。そこから、頂く所の心の安らぎ。神に心任せて心安かれと。というのは、決して神様にお願いしておるからまあ大丈夫と思うとります。と云う様なものではないと。その任せておるという内容をよく検討してみなければいけん。任せておる、安心しておるという、その内容がです、まあだこれだけのものがあるから。
 あの人がおってくれるから、健康だから、お金があるからと言った様な物がその内容にあるならば、それは本当の安らぎではないと。私共の信心はです、その本当の安らぎを求めて、本当の安心を目指しての信心。そこんところにです、私はお互いの焦点をおいて信心をさせて貰わなければならんと。神に心任せて心安かれと。私今日、ご神前に出らせて頂いたらね、ご心眼に頂く事。
 浦島太郎さんが、なら夢、ほんなものは私はよう知らんです(笑)おんなさったか、おんなさらなかったかようわからんのだけれど、あの浦島太郎さんがね、あの釣竿をかたげて、してあんな格好してから、亀にゃ乗らんで一生懸命歩いておる所を頂いた。これでは、矢張りおかげにならん。やはり、亀の背中に、乗っとかな詰らん。努力したからと、その努力を間違えてはおかげにならん。いわゆるその神様に任せると云う事が、ただ一生懸命、その我流な努力をすると云う事ではない。
 これは、中々至難、いうならばそれこそが難しい。神様任せは、金光大神任せである。金光大神にお任せすると云う事は、お取り次ぎを頂いて、お取り次ぎを受ける先生にお任せすると云う事である。そしてそれが、ただ神様にお願いしておるから、お取り次ぎを頂いたからそれで安心と言った様な物ではなくてです、その内容が、金に頼ってるから安らぎではない、健康だから、安心というのではない。
 あの人がおってくれるからというて。頼っておる様な心を、があってからの安心は、ほんなものではないと。ほんとに神に心任せて、心安かれという、信心を、内容をです、私共が、時々間違える事がある。昨日婦人部会に、ある方、ある婦人の方が、もう今朝から有難うして堪らん。目が覚めた事も有り難い。もうお日様が、このぅ、だんだん夜、朝がこの明け染めて来る、その様子を見ても有り難い。
 お花の水を替えよっても有り難い。もう本当に、お花の水を替えて行く、お神様から井戸の、井戸からご神前の所までこうやって、もう一足一足歩かせて頂ける事が有り難うして堪えん。というてその、もう本当にあんな事はなかったけれども、もう今朝ばっかりそんな、おかげを頂きました。昨夜の御理解を頂いて、信心とは結局その、有り難しの内容が、おかげの内容になって来るのだと言うような御理解を頂いてからそのお届けをした方があったんですけれど、成程それも結構なんだけれどもね。
 別に、まあもう何不自由ないおかげも頂いている事で御座いますから、それもええけれども、本当の私は有り難いというのは、それとは反対の様な環境の中にあってもです、そういう有り難いというのがあるのであったら、それはいよいよほんなもん。だからと言ってそれが何時もかつも有り難いかというと、今朝はというのである。今朝は有難かったと、だから信心とはその有難かったという、有り難いというのはこんなもんだという、一つの手本を心の中に見せて下さる様な物であるか。
 それを間違いなく育てて行かなければいけない。瞬間的なもの、一時的な有り難いであってはならん。だから何時、どんな場合にでもそれが壊れない、邪魔されない、壊されない喜びに育てて行かなければならない。そういう私は努力、そういう精進をさせて頂きながら、神様にお任せをする。そして心が安らぐ。ていうものでなからなければならん。ですから、もう命を任せる、と云う事が心任せると云う事は、命を任せると云う事だというと大変厳しいんですけれども。
 私共が、見本の様に頂く所にその有難しというものをです、いよいよ消さん様に、精進する、努力すると云う事なんだ、そこから安らぎが生まれて来るならば、それは本当なものなんです。けれども私どもが、安らぐ、大体安心しておると云う事がです、まあ頭がよいから、お金があるから、健康だからと言った様な物が、その安らぎの中にあるとするなら、それはまあだまあだ本当なものじゃないから、そこを焦点にしてから。
 そういうものをいっちょむなしゅうして、例えばなら私でいうならば、若先生がどんなにぐうたらでもいい。総代さんが、どんなに、例えば、詰らん人達でもいい。信者の人の中にゃ、有力な人がしっかりやってくれておるからと言う様なものではなくてです、そんな事なんかは問題ではないて。けどもそう言う様なものが私の心の中にちらっとでも、あの人達がおってくれるからと言う様なものがあって、私が安心しておると言うのだったら、そりゃほんなもんじゃあないと、言う様な事を申しましたですね。
 けども皆さんが全然当てに成らん。頼りにならんというのじゃないですから、どうぞ誤解せん様に。心任せて、神に心まかせて心安かれと、いうその内容は、只今私が申しした様な事。命がけ、命がけで任せると。と言うと、大変厳しいけれども確かに、もう命までも任せると、いうならば、本当に浦島太郎が亀の背中に乗ると言う事は、実をいうたら見やすい事の様であって、見易い事はない。
 何故かというと、その例えば亀がです、どういう、深い所をとおるか分らん、はあここで落ち込んだら死ぬかもしれん。というて、ならその亀の背中からおりよったらおぼれてしまわんならん。どんなに荒波があってもその、亀がとおって行くか分らん。そう云う所でもしっかり亀の背中にしがみ付いておれれると云う事なんです。だからそういう、いわば難しいことなんだけれども、ならそれを信心でです。
 平たく言うとどう云う事かと言うと、私共信心させて貰よると誰でも、あのカレンダーの中にも御座いますでしょう。お参りが出来る確かにもう何日かでもお参りさせて貰よると確かに心の中に喜びの芽がでると。信心で頂く喜びとはこんなもんだろうかというものがでる。ところがそれを無残に踏みにじってしまうから、本当のおかげにならんという意味の事が書いてある様にです、私共の心の中に確かに一つの喜びの芽がでる。ですから信心とはその喜びの芽をです、本当なものに育てて行くという、精進。
 ですから、その命がけとは言いながら、そのそんなに厳しいもの。言葉にあらわれておる程の厳しいものではない。けれどもまた厳しい。まあ今日は、もう一番難しい信心を皆さんに聞いて貰ったです。心任せ。皆さんがよく言われます。もうお取次ぎを頂きゃあ安心だと。成程そう云うところから、お互いの信心が。それだけでもです、始めの間は、なかなか安心は出来ません。もうお取次ぎを頂いとるけん、安心しとります。けどもそれは、あまりもの信心。
 それだけではいかん。お取次ぎを頂いて、お願いをさせて頂いたら、自分なりに一生懸命にその喜びをきやさない、まあ喜びというと難しい、なら元気な心をきやさない、神様に打ち向かう心をきやさない、細めない、その精進、努力がです、心の中に生まれて来る安らぎであるならば、それはほんなものである。けれどもあれを頼り、惟を頼りしてから心の中に安らぎを感じておるならば、それは未だほんなものではないと、そういうものは一変なくさなければいけん。
 総代も要らん、若先生も要らん。委員長も要らんそこから、長男が一生懸命、若先生が一生懸命やってくれる。総代が一生懸命やってくれる。委員長が一生懸命やってくれると言う物でなからなければ、本当なものではない。それが私がこちらに頼らずにです、神様の方にへ心いよいよ向けてから、その事か出来て初めて安心である、安らぎであると云う事なんですね。どうぞ、神に心任せて心安かれと言う様な信心を目指しての信心でなからなければいけませんですね、
   どうぞ。